「快速」を降りて、「特快」に乗り換える勇気。
今日、またやってしまった。
朝から現場へ向かう俺の足は、いつものように少し急いていた。急いているというより、急いていないと不安になる、あの感じだ。何かに追われているわけじゃない。でも、止まっていると損をしている気がする。動いていないと、世界に置いていかれる気がする——そういう強迫観念が、俺の背中にずっとへばりついている。
ホームに滑り込んできた快速を見た瞬間、体が動いていた。
考える前に乗っていた。
扉が閉まる。電車が走り出す。俺はつり革を掴みながら、なんとなくスマホを開いた。べつに調べるつもりはなかった。ただの習慣だ。情報の灯火を無意識にともす、あの習慣。そしてそこに、残酷な事実が書いてあった。
後から来る特別快速の方が、早く着く。
……俺は、やってしまった。
乗ってしまった後の静けさ
快速の車内は、そこそこ混んでいた。座れなかった。
つり革にぶら下がりながら、俺はしばらく何も考えないようにした。考えると自分を責め始めるから。「なんで確認しなかった」「いつもそうだ」「少し待てばよかったのに」——そういう言葉が、頭の中で行列を作ろうとしている。
でも、ちょっと待て。
俺はその行列を手で払うように、深呼吸をひとつした。
電車の窓の外を、街が流れていく。マンションが流れる。コンビニが流れる。空が流れる。空は今日もただそこにある——広くて、無料で、誰にも奪えない。空無料。そらむりょう。俺が勝手にそう呼んでいる、この世で唯一コスパのいいもの。
流れていく景色を見ながら、俺は少し落ち着いてきた。
「執着」という名の沈没船
電車の話をしよう。
俺だけじゃない。多くの人が、一度乗った電車をなかなか降りられないのだ。「せっかく乗ったのだから」という気持ち。「途中で降りるのはもったいない」という感覚。一度決めたことをひっくり返すのは、なんだか負けた気がする——そういう、根拠のない敗北感。
これを、投資の世界ではサンクコスト、埋没費用と呼ぶらしい。すでに支払ったコストにとらわれて、より合理的な判断ができなくなる罠だ。
でも俺は今日、その罠から逃げることにした。
次の駅で降りた。
ホームに出ると、外の空気がひんやりしていた。快適な座席への未練はあった。正直あった。でも俺は、それよりも早く目的地へ着くことを選んだ。快速の立ち席で揺られ続けることより、一度立ち止まって乗り換えることを選んだのだ。
乗り換え。
この言葉が、なんだか今日やけに重く響く。
人生も、快速と特快が走っている
考えてみれば、人生も似たようなものだ。
みんな何かに乗っている。仕事に乗っている。習慣に乗っている。一度乗った関係に、一度選んだ道に、気づけばもう何年も乗り続けている。「せっかくここまでやってきたから」という言葉で、自分を縛り続けながら。
でも、後から来る特快があるかもしれない。
もっと早く、もっと楽に、もっと自分らしく目的地へ辿り着ける、別のルートが。それを知らないまま、あるいは知っていても怖くて降りられないまま、ひたすら立ち続ける——それが果たして美しいことなのか、俺にはもうよくわからない。
突き進むことが美徳。やり通すことが誠実。一度決めた道を最後まで走ることが、人間としての誇り。
そういう言葉を、俺も昔は信じていた。
でも今は、少し違う気がしている。
乗り換えてみた、その後のこと
特快に乗った。
今度は座れた♪
窓際の席に滑り込んで、俺は思わず小さくガッツポーズをした。誰も見ていない。でも、やった。小さな勝利だ。この世で最も地味な勝利のひとつかもしれないけど、俺にとっては本気でうれしかった。
座れた。それだけで、今日の空気が少し変わった気がした。
窓の外を、今度は座ったまま眺める。同じ景色でも、立って見るのと座って見るのとでは違う。体が落ち着くと、頭も落ち着く。頭が落ち着くと、見えてくるものがある。
乗り換えてよかった、と俺は思った。
快速の中で「降りるべきか」と悩んでいた時間が、今となっては小さく見える。あの時は大きな決断に感じたのに。それだけで?それだけで、だいぶ変わるものだな、と——。
リサーチする者の誇り
俺がやっているのは、お金を検索することだ。
正確に言えば、お金に関する情報を丁寧に調べて、整理して、言葉にすること。それが岡根健作という人間の仕事だと、俺は思っている。大げさかもしれない。でもそう思っていないと、やってられない部分もある。
情報を調べる、ということは、特快の存在に気づく、ということだ。
知らなければ、ずっと快速に乗り続ける。それが普通だと思いながら。でも調べた人間だけが、「あ、もっといいルートがある」と気づける。気づいた時点で、選択肢が生まれる。選択肢が生まれた瞬間、人間は少しだけ自由になる。
座れなかった後悔よりも、今この瞬間から最善を尽くしているという感覚。
それが、自分を「検索」し続ける者の、小さくて静かな誇りなのだと、俺は今日の座席の上で思った。
結論は出ない。
でも、まあ。今日のところは、こんな感じでいいかもしれない。

