【14】「無為の行」の終わりと、残高としての時間。

人生の残り時間は、減り続けている。

時間のことを、考えた。

時間は無限なのか、有限なのか。

宇宙のレベルで考えると、よくわからない。

時間に始まりと終わりがあるのかどうか、物理学者たちも議論し続けているらしい。

そういう大きな話は俺にはわからない。

私の考えでは、時間は基準軸のひとつであり、距離とかと同じ。あるとかないとかではない。

でも、俺個人の話に限定すれば——この人生における時間は、一応「有限」ということらしい。

生まれてから最期まで。

その全貌は誰にも見えない。何歳まで生きるかもわからない。でも確実なことが、一つだけある。

それは、私の残り時間が着々と減り続けているということだ。

今この瞬間も、残り時間は減り続けている。

着々と、静かに、確実に。

目次

残り時間が減るということの、本当の意味

残り時間が減る、というのは、つまりどういうことか。

やれることが少なくなっていく、ということだ。

残り時間が少なくなるということは、人生における『選択肢』という名の在庫が、日々少なくなっているのと同義である。

あれもやりたかった。これもやりたかった。

選択肢がある、ということは豊かなことだ。

でも時間が減れば、その選択肢も減っていく。

今日できることが、明日はできないかもしれない。今年できることが、来年はできないかもしれない。

それは、お金の話と似ている。

残高が減り続けているのに使い方を決めていないと、気づいた時には使える金額が少なくなっている。

時間も同じだ。残高を把握していないまま過ごすと、気づいた時には選択肢が狭まっている。

残り時間という資産を、どう使うか。

これは、お金の使い方と同じくらい、いやそれ以上に重要なリサーチ課題だと俺は思う。

「無為の行」:なにもしない、という実験

中学生の頃、俺はふと思いついたことがある。

「無為の行」というのをやったらどうなるか、と。

無言の行というのがある。何も喋らない修行だ。

インドには何十年も手を空に向かって上げ続けている修行僧がいるらしい。

そういう人たちは「何もしていない」ように見えて、実は何かをやり続けている。

じゃあ、本当に何もしない、というのをやったらどうなるのか。

無為。

何もしない、という状態。あれもこれもやらない。目標も立てない。努力もしない。ただそこに在るだけの時間を、ただ在るだけで過ごす。

「無為の行」は、いわば私のオリジナルの修行である。

中学生の俺はそれを一種の実験として思いついた。

そしてどうやら、その実験を——俺はずっと続けてきたらしい。

なにもしないことを開始したこと自体を忘れていたのだ。

何も喋らない『無言の行』や、何十年も手を上げ続けるインドの修行僧のように、私はあえて『何もしない』という道を選び、歩んできたような気がする。

振り返ってみると、そういうことだったのかもしれない、と思う。

意識してやっていたわけじゃない。

でも気づいたら、それに近い状態で、長い時間を過ごしてきた気がする。

俺は、間違えたのだろうか?

あれもこれもと欲張らず、かといって何もしないわけでもない。

ただ、そこに在るだけの時間。

世間から見れば『無駄』と呼ばれたその時間は、実は最高に贅沢な時間の使い方だったのかもしれない。

だが、今の私には一つの問いが突きつけられている。

なんだろう

 

「間違えたかな?」

 

この問いが、今日ずっと頭の中にある。

 

『私は、間違えたのだろうか?』

『私は、間違えてきたのだろうか?』

『私は、間違っているのだろうか?』

 

何もしてこなかった、という自己評価が正しいとして——それは失敗だったのか。浪費だったのか。取り返しのつかない過去なのか。

成功か失敗か、という二元論で測るには、あまりにも複雑すぎる、という気もする。

というか、自分の人生、失敗だとは思いたくない。

何もしないことで、何かが育っていた可能性もある。静かな時間の中で、何かが醸成されていた可能性もある。

インドの修行僧だって、傍から見れば何もしていないように見える。でも本人の内側では何かが起きているのかもしれない。

……でも、正直に言うと。

そんなきれいごとで自分を慰めても、どこかしっくりこない部分がある。

 

間違えたかもしれない。

 

少なくとも一部は、間違えた。もっと早く動けた。もっと早くやれた。

一部?

本当に一部か?

大部分じゃないのか?

もしかしたら、今頃は違う場所にいたかもしれないんだ。

そういう後悔が、ないわけじゃない。

あるんだ。

ある。

後悔しかないわけではないが。

後悔だけなわけじゃないけど。

けど。

もう、遅いのかな?

遅いのかな、と俺は思う。

今から動いて、間に合うのか。残り時間が少なくなっているのに、今更始めて、何かが変わるのか。

ここで俺の頭にまた、石橋を叩いてるだけで渡らない問題が再発する。

遅いかもしれないから、始めない。始めて失敗したら余計に時間を無駄にするから、始めない。そうやってまた、動かない理由を探し始める。

でも、待てよ。

遅い、という基準は何だ。

誰かと比べて遅い、ということか。社会の時刻表と比べて遅い、ということか。理想のスケジュールと比べて遅い、ということか。

比べる対象がなければ、遅くもない。

今日この日を起点にすれば、今日から始めることが一番早い。

昨日始めていれば昨日が一番早かったが、昨日に戻れない以上、今日が一番早い日だ。

自分の人生は自分の人生なんだ。

「遅い」じゃなくて「今が一番早い」と読み替えることが、できないこともない。

……できないこともない、というのは弱い言い方だけど。

でも今日のところは、それくらいの強度でいい気がする。

無為の行が終わる日

「無為の行」は終わりにしようかな、と思った。

実験の結果は出た。

何もしないと、何も変わらない。

何もしないと、何にもならない。

何もしないのは、何もしないのと同じ。

当たり前の結論だけど、それを実際に体で確認してきた。それがこれまでの年月だったとすれば、無駄じゃないのかもしれない。実証済みのデータだ。

無駄だったかな?

まあいい。

次は、「為す」ための時間だ。

これからの時間は、その空白を埋めるための時間だ。

お金のことを検索し続けているのも、その一環だと俺は思っている。

何もしなかった時間があるから、今から何かをする意味がわかる。

暗い空があったから、今日の明るい空が気持ちいい。

残り時間が少なくなっているからこそ、一分一秒の価値が上がっている。

今使う一時間は、十年前に使う一時間より、ずっと重い。

過去の『無為』を後悔するのではなく、それを『次の一手』を打つための静かな準備期間だったと再定義するのだ。

だから今日の俺は、書いている。考えている。動こうとしている。

何もしないという修行。それは、効率を追い求める現代社会において、ある種の贅沢であり、同時に最も勇気のいる時間の使い方だったのかもしれません。

間違えたかどうかを考えるのは、もう終わりにしよう。

残されたわずかな時間を使って、何を『為す』か。

私は今、やっと人生という名の重い腰を上げようかなと考えているんだな。

もしかしたらそうなのかもしれない。

「何もしない」という贅沢な修行を終えようかなと、少し思う。

「何もしない」のは趣味でもいいのかなと思う。

もう遅いのかな、という問いには、まだ答えが出ていない。

でも、遅くても始める、ということはできる。

はずなんだ。

でも、

何もしないことも好きなんだ♪

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