【12】「横断歩道」という名の、最も賢い投資。

赤信号で止まるのは「義務」ではなく「理性」だ。リスクとリターンの天秤。

横断歩道があるならば、僕はそこをゆく。

これは別に、ルールだから守っているわけじゃない。

少なくとも俺の中では、そういう感覚じゃない。

横断歩道を渡るのは、ルールに従っているんじゃなくて、そっちの方が得だからだ。

安全だからだ。合理的だからだ。

横断歩道じゃない場所を渡ることで得られるものは何か。

せいぜい、数十秒の短縮だ。

信号を待たずに、車の隙間を縫って渡れば、少しだけ早く向こう側に着く。そのリターンは、30秒とか、多くても一分とか、そういう話だ。

横断歩道ではない場所を渡ることで得られるリターンは、せいぜい『数十秒の短縮』だ。

対して、そこで失う可能性があるものは何か。

残された全部の時間だ。

命だ。

そこで失うかもしれないリスクは『残された一生の時間』である。

30秒のために、残りの人生を賭ける。どう考えても、割に合わない。

リターンが小さすぎる。リスクが大きすぎる。

これほどまでに割に合わない、愚かな投資(リサーチ不足の行動)があるだろうか?

ここまでバランスの崩れた投資は、お金の世界でもなかなかない。

だから僕は横断歩道をゆく。車が来ていない時に渡る。車の流れが切れない時は、横断歩道という聖域で待つ。

そうしていると、たいていの車はブレーキを踏んで道を譲ってくれる。

私はただ、ルールに従っているのではない。自らの『命の期待値』を最大化するための選択をしているのだ。

それだけのことだ。でも、それがちゃんと理性の話なんだと俺は思っている。

目次

リスクとリターンという、人間の基本ソフト

人生のあらゆる行動には、リスクとリターンがある。

横断歩道の話は、そのまま人生の比喩だと俺は感じている。

どんな場面でも、取るリスクとそのリターンを天秤にかける能力——それが、人間の理性の基本じゃないかな、と。

理性の基本。

そう思うと、横断歩道を守るという行為が、少し違って見えてくる。

ルールを守るという話じゃなくて、理性的に動いているということだから。

ルールだから従う人間と、リスクとリターンを計算した上で同じ行動を選んでいる人間とでは、何かが違う気がする。

前者は外側の力で動いている。後者は自分の内側の判断で動いている。

同じ結果でも、そこにある意識が違う。

俺は後者でありたいと思っている。「ルールだから」じゃなくて、「そっちが得だから」「そっちが合理的だから」という判断で動きたい。

リターンに見合わないリスクを排除すること。それが、人間が持ちうる『理性』の基本であり、生存のための大原則なのだ。

命は貴重だ。これを最初の前提に置くと、そこから出てくる答えは自然と「安全な方を選ぶ」になる。

命がなければ、稼いだお金も、積み上げた経験も、リサーチした情報も、全部を享受する主がいなくなってしまう。

土台がなければ、何も建たない。

安全第一というのは、消極的なスローガンじゃない。

次のチャンスを掴むための、最も積極的な準備なのだ。

警備員という仕事が、毎日教えてくれること

私は警備員として、毎日、現場に立っている。

現場では「安全第一」という言葉を毎日聞く。毎日言う。

最初はただのスローガンに聞こえていた。でも、繰り返していると、この言葉の重さが少しずつわかってくる。

現場で何かが起きた時、人が怪我をした時、そういう場面を経験すると——安全というのがいかに大事で、いかに地味で、いかに毎日の積み重ねの上にあるものかということが、じわりと伝わってくる。

派手な行動より、地味な安全確認の方が、長期的には圧倒的に価値が高い。

これはお金の話でも同じだと俺は思う。

一発逆転を狙って大きなリスクを取るより、リターンに見合ったリスクを地道に積み重ねていく方が、長期的には生き残れる。横断歩道を守るのと、同じ理屈だ。

一歩一歩、安全に。

『安全第一』、それは単なるスローガンではない。

どんなに大きな利益を上げようと、命を失えばその結果を享受する主(あるじ)がいなくなってしまう。

命は貴重だ。大事にしなければならない。

その当たり前の事実を、論理的な『理性』で再定義すること。

『安全であること』は、消極的な守りではなく、次なる大きなチャンスを掴むための、最も積極的な準備なのだ。

私は横断歩道の白い線を一歩ずつ踏みしめながら、自分に言い聞かせる。

どれほど急いでいようとも、私は理性の外側へは踏み出さない。

一歩一歩、安全に。それが私の、そして人生という現場の鉄則なんだ。

やはり命は貴重、大事にしないと。

でも。

ここで俺は白状しなければならないことがある。

石橋を叩いてるだけで渡らないのが、俺の問題なんだ!

これを書いていて、気づいてしまった。

安全を大事にしよう、リスクとリターンを考えよう、リターンに見合わないリスクは取らないようにしよう——これは全部正しい。

正しいんだけど。

俺の場合、この考え方がどこかで「石橋を叩き続けて渡らない」という行動パターンと合体してしまっている気がする。

リスクを測っている。リターンを考えている。慎重にリサーチしている。

でも、渡っていない。

横断歩道の前で、ずっと考え続けている。

「本当に今渡っていいのか」「車は来ないか」「信号は本当に青か」「青に見えるけど実は黄色じゃないか」——そうやって確認しているうちに、信号がまた赤になる、みたいな。

過剰な安全確認が、行動そのものを止めてしまっている。

これは、理性の使い過ぎだ。

理性は、行動のためにある。行動を止めるためにあるんじゃない。

リスクを計算するのは「渡るために」であって、「渡らないために」じゃない。

なのに俺は、計算ばかりうまくなって、足が前に出ていないのかもしれない。

これは、痛い自己認識だ。

横断歩道を、渡る

白い線が並んでいる。

横断歩道だ。

信号が青になった。車は止まっている。条件は揃っている。渡っていい。渡るべきだ。

俺は、渡る。

ちゃんと渡る。ゆっくりでいいから、でも確実に、足を前に出す。

石橋は叩いた。叩いた上で渡る。

叩いたなら渡らないといけない。

渡らないといけないというのは言い過ぎかもしれないが。

渡らないと前に進めないじゃないか!

叩いただけで立ち止まっていたら、それは叩いた意味がない。

一歩一歩、安全に。

でも、一歩は踏み出す。

その両方が、俺には必要なんだと思う。

今日の横断歩道で、俺はそれを確認した。白い線を踏みながら、自分に言い聞かせた。

まあ、覚えていられるかどうかはわからないけど。

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