赤信号で止まるのは「義務」ではなく「理性」だ。リスクとリターンの天秤。
横断歩道があるならば、僕はそこをゆく。
これは別に、ルールだから守っているわけじゃない。
少なくとも俺の中では、そういう感覚じゃない。
横断歩道を渡るのは、ルールに従っているんじゃなくて、そっちの方が得だからだ。
安全だからだ。合理的だからだ。
横断歩道じゃない場所を渡ることで得られるものは何か。
せいぜい、数十秒の短縮だ。
信号を待たずに、車の隙間を縫って渡れば、少しだけ早く向こう側に着く。そのリターンは、30秒とか、多くても一分とか、そういう話だ。
横断歩道ではない場所を渡ることで得られるリターンは、せいぜい『数十秒の短縮』だ。
対して、そこで失う可能性があるものは何か。
残された全部の時間だ。
命だ。
そこで失うかもしれないリスクは『残された一生の時間』である。
30秒のために、残りの人生を賭ける。どう考えても、割に合わない。
リターンが小さすぎる。リスクが大きすぎる。
これほどまでに割に合わない、愚かな投資(リサーチ不足の行動)があるだろうか?
ここまでバランスの崩れた投資は、お金の世界でもなかなかない。
だから僕は横断歩道をゆく。車が来ていない時に渡る。車の流れが切れない時は、横断歩道という聖域で待つ。
そうしていると、たいていの車はブレーキを踏んで道を譲ってくれる。
私はただ、ルールに従っているのではない。自らの『命の期待値』を最大化するための選択をしているのだ。
それだけのことだ。でも、それがちゃんと理性の話なんだと俺は思っている。
リスクとリターンという、人間の基本ソフト
人生のあらゆる行動には、リスクとリターンがある。
横断歩道の話は、そのまま人生の比喩だと俺は感じている。
どんな場面でも、取るリスクとそのリターンを天秤にかける能力——それが、人間の理性の基本じゃないかな、と。
理性の基本。
そう思うと、横断歩道を守るという行為が、少し違って見えてくる。
ルールを守るという話じゃなくて、理性的に動いているということだから。
ルールだから従う人間と、リスクとリターンを計算した上で同じ行動を選んでいる人間とでは、何かが違う気がする。
前者は外側の力で動いている。後者は自分の内側の判断で動いている。
同じ結果でも、そこにある意識が違う。
俺は後者でありたいと思っている。「ルールだから」じゃなくて、「そっちが得だから」「そっちが合理的だから」という判断で動きたい。
リターンに見合わないリスクを排除すること。それが、人間が持ちうる『理性』の基本であり、生存のための大原則なのだ。
命は貴重だ。これを最初の前提に置くと、そこから出てくる答えは自然と「安全な方を選ぶ」になる。
命がなければ、稼いだお金も、積み上げた経験も、リサーチした情報も、全部を享受する主がいなくなってしまう。
土台がなければ、何も建たない。
安全第一というのは、消極的なスローガンじゃない。
次のチャンスを掴むための、最も積極的な準備なのだ。
警備員という仕事が、毎日教えてくれること
私は警備員として、毎日、現場に立っている。
現場では「安全第一」という言葉を毎日聞く。毎日言う。
最初はただのスローガンに聞こえていた。でも、繰り返していると、この言葉の重さが少しずつわかってくる。
現場で何かが起きた時、人が怪我をした時、そういう場面を経験すると——安全というのがいかに大事で、いかに地味で、いかに毎日の積み重ねの上にあるものかということが、じわりと伝わってくる。
派手な行動より、地味な安全確認の方が、長期的には圧倒的に価値が高い。
これはお金の話でも同じだと俺は思う。
一発逆転を狙って大きなリスクを取るより、リターンに見合ったリスクを地道に積み重ねていく方が、長期的には生き残れる。横断歩道を守るのと、同じ理屈だ。
一歩一歩、安全に。
『安全第一』、それは単なるスローガンではない。
どんなに大きな利益を上げようと、命を失えばその結果を享受する主(あるじ)がいなくなってしまう。
命は貴重だ。大事にしなければならない。
その当たり前の事実を、論理的な『理性』で再定義すること。
『安全であること』は、消極的な守りではなく、次なる大きなチャンスを掴むための、最も積極的な準備なのだ。
私は横断歩道の白い線を一歩ずつ踏みしめながら、自分に言い聞かせる。
どれほど急いでいようとも、私は理性の外側へは踏み出さない。
一歩一歩、安全に。それが私の、そして人生という現場の鉄則なんだ。
やはり命は貴重、大事にしないと。
でも。
ここで俺は白状しなければならないことがある。
石橋を叩いてるだけで渡らないのが、俺の問題なんだ!
これを書いていて、気づいてしまった。
安全を大事にしよう、リスクとリターンを考えよう、リターンに見合わないリスクは取らないようにしよう——これは全部正しい。
正しいんだけど。
俺の場合、この考え方がどこかで「石橋を叩き続けて渡らない」という行動パターンと合体してしまっている気がする。
リスクを測っている。リターンを考えている。慎重にリサーチしている。
でも、渡っていない。
横断歩道の前で、ずっと考え続けている。
「本当に今渡っていいのか」「車は来ないか」「信号は本当に青か」「青に見えるけど実は黄色じゃないか」——そうやって確認しているうちに、信号がまた赤になる、みたいな。
過剰な安全確認が、行動そのものを止めてしまっている。
これは、理性の使い過ぎだ。
理性は、行動のためにある。行動を止めるためにあるんじゃない。
リスクを計算するのは「渡るために」であって、「渡らないために」じゃない。
なのに俺は、計算ばかりうまくなって、足が前に出ていないのかもしれない。
これは、痛い自己認識だ。
横断歩道を、渡る
白い線が並んでいる。
横断歩道だ。
信号が青になった。車は止まっている。条件は揃っている。渡っていい。渡るべきだ。
俺は、渡る。
ちゃんと渡る。ゆっくりでいいから、でも確実に、足を前に出す。
石橋は叩いた。叩いた上で渡る。
叩いたなら渡らないといけない。
渡らないといけないというのは言い過ぎかもしれないが。
渡らないと前に進めないじゃないか!
叩いただけで立ち止まっていたら、それは叩いた意味がない。
一歩一歩、安全に。
でも、一歩は踏み出す。
その両方が、俺には必要なんだと思う。
今日の横断歩道で、俺はそれを確認した。白い線を踏みながら、自分に言い聞かせた。
まあ、覚えていられるかどうかはわからないけど。

