失敗の定義を、上書きする。
座れた。
座れたんだ!!
この喜びを、どう伝えればいいのかわからない。
たかが電車の席に座れただけだ。それはわかっている。
世の中の大きな問題から見れば、どうということもない出来事だ。でも俺にとって、これは小さな革命だった。
知略を使って勝った感がすごい。成功した感がすごい。
全身をおおう達成感。「やった!俺はやったぞ!」そう叫びたいのをグッとこらえて、俺は一人静かに喜びを噛み締めた。
さて、順を追って話そう。
失敗だと思っていた、その時
少し前の話になる。
俺はまた、来た電車に考えなしで乗り込んでしまった。
それが快速だった。さらに特別快速に追い抜かれる快速だった。私はまた『特別快速』ではなく『快速』に乗ってしまうというミスを犯してしまったんだ!
それに気づいて「あっ」となった。
またやった、と思った。少し失敗した気分だった。
でも、だ。
その「失敗」が、思わぬ方向に転んでいくことになる。
「次の駅では特別快速との待ち合わせをします」というアナウンスが車内に流れた。
それに乗り換えようと思っていた。
しかし、電車がその駅に近づいてきた時、俺の頭の中に一つのひらめきが降りてきた。
「特快に乗り換えるために、この駅でたくさんの人が降りるのでは?」
つまり、席が空く。
大量に空く可能性がある。
失敗だと思っていたこの快速という場所が、一瞬にして「埋蔵金の在り処」に見えてきた。
車内に大量の「空席」という埋蔵金が発生するというビジョンが見えた。
視点が変わる瞬間というのはこういうことで、状況は何も変わっていないのに、切り口を変えただけで世界が別のものに見え始める。
確かに俺も特別快速に乗り換えようと思っていた一人だった。でも思いとどまった。
「皆が降りるなら、席が空くかもしれない。そしたらチャンスじゃないか!」
そう考えた瞬間から、俺は「各駅停車でどん詰まりの乗客」から「トレジャーハンター」に変わっていた。
普通の場所が、一瞬にしてチャンスの宝庫へと変わった。
席が空いた!
電車がホームに近づいてくる。
俺は周囲をゆっくりスキャンし始めた。
誰が降りそうか。どの席が空くか。荷物を膝から下ろし始めた人。スマホをポケットにしまった人。体の向きが変わった人。
そういう微妙な変化を、俺はひとつひとつ拾っていた。
目の前の席のお客が、降りる素振りを見せた。
グズグズしている。立つのか立たないのか、ハッキリしない。
普段の俺だったら、そこを待っていたかもしれない。
でもこの時、俺には疑念があった。「この客は本当に降りるのか?」という感覚だ。
「降りそうな素振りを見せていたお客が実は降りない」ということはたまにある。俺はこれを「フェイント」または「だまし」と呼んでいる。ものすごくガッカリするんだ。
しかし、俺は疲れているんだ、席に座らないわけにはいかないんだ!
ドキドキする。
目の前ばかりに集中していたら、別のチャンスを見逃すかもしれない。
だから俺は視線を移した。周りを見回した。周辺を瞬時にスキャン(検索)した。
そしたら少し離れたところの席から立ち上がる人を発見した!!
予測は的中した!
席が空いた!
電車はすでにホームに滑り込んでいる。ドアが開く寸前だ。
目の前のお客はまだグズグズしている。座ったまま、まだ席を立たない。
このままこの目の前のお客が立つのを待ち続けても、もしかしたら降りないかもしれない。
そうなってから「空いた席」に行こうとしても、もうその席には誰かが座っているかもしれない。
見逃すわけにはいかない。
座らないわけにはいかないんだ!!!
体が動いた。
俺は速足で歩き、気づいたら空いた席に座っていた。
私の体は反射的に動いていたんだ。
迷い、グズグズしている周囲を出し抜き、私はその『王座』へと滑り込んだんだ。
王座
電車の席だ。普通の電車の席だ。
でも今夜のこの席は、どんな高級ソファーよりも心地よく感じられた。
座った瞬間、現場帰りの体の重さが、ふっと溶けていく感覚があった。
足の痛さが、少しだけ遠くなった。
椅子に座れる。ただそれだけのことが、これほどまでに素晴らしいものだなんて♪
こんなにも座ることが人間にとって重要なのか、と思った。
立っている間はわからない。座れた瞬間にだけ、わかることがある。
ドアが開くと同時に、座っていた人々が立ち上がり特快へと流れていく。
俺はその音だけを目を閉じて聞く。
そして俺は、今夜の一連の動きを頭の中で再生した。
最初の「失敗」と思った乗り間違い。そこからの状況把握と方針転換。降りそうな人の観察。
目の前のお客のグズグズに惑わされずに別の空席を発見したこと。ためらわずに動いたこと。
これ、全部つながっているんだ!
周囲の動向を予測した「知略」。
一瞬の隙を突いた「決断」。
そして、結果を掴み取った「行動。」
失敗の中にチャンスがあって、観察から予測が生まれて、予測から決断が生まれて、決断から行動が生まれた。
その連鎖の結果として、この席がある。
偶然じゃない。
速度では負けたかもしれない。特快に抜かれた快速の、さらに立ち続けていた俺が、この区間において「誰よりも得した人間」になった。
期待値という言葉を俺はよく考えるのだが、今夜の期待値は最高だった気がする。
私は静かに座面に深く身を沈めた。
知略、という言葉を使っていいのか
「知略を使って勝った」と最初に書いたが、電車の席に知略もへったくれもないだろう、と思うかもしれない。
でも、どうだろう。
小さな勝利でも、勝利は勝利だ。
周囲の動きを観察して、予測して、一瞬のチャンスに決断して、行動した。
それは確かにやった。電車の席でやったけど、やったことはやった。成功体験を積めた。
小さな成功でも、成功であることには変わりはないんだ。
むしろ、日常のこういう小さな場面でそれができるかどうか、が、大きな場面にも繋がるんじゃないかと俺は思っている。
普段からチャンスを見逃す人間が、大きなチャンスが来た時だけ急に掴めるとは思えない。
小さい場面で練習している人間だけが、大きな場面でも動ける。
電車の席は、練習台だ。
そう思うことにした。
お金の世界でも、仕事の世界でも、機会というのはこういう風に来るのかもしれない。
状況が悪いと思っていた場面に実は埋蔵金があって、惑わすものに引っ張られずに本命を見極めて、ためらわずに動く。
俺にはまだそれが下手な部分がたくさんある。
でも今夜は、電車の席において、ちゃんとやった♪
現場帰りの疲れた体に、全身をおおう達成感。
それだけで、今日はもう十分すぎるくらいだと思う。
肉体の疲労が溶けていく感覚と共に、全身を突き抜けるのは圧倒的な『達成感』だ。
椅子に座れるのがこんなにも良いものだなんて♪
知略を使って勝った感がすごい♪
成功した感がすごい♪
そこはかとなく全身をおおう達成感。
「やった!俺はやったぞ!」
そう叫びたいのをグッと堪えて1人静かに喜びを噛み締めた。

