財布の中身が三千円を切ると、人間は不思議な行動をとる。
「安いものを買おう」と思い始めるのだ。
節約のつもりで。賢い買い物のつもりで。
でも俺は先月、100円ショップで1000円を溶かした。しかも、特に必要なものを買ったわけでもなく。
あの一時間を振り返るたびに、お金というものの不思議さを思う。
入口の罠
駅前の100円ショップに入ったのは、夕方だった。
目的は一つ。キッチンのスポンジ。それだけ買えばよかった。
自動ドアをくぐった瞬間、涼しい空気と一緒に、あの独特の匂いが来た。プラスチックと、新しい紙と、何か甘いものの混じった匂い。100円ショップに来ると、いつもこの匂いで少しだけ気持ちが浮く。
棚が整然と並んでいる。
色とりどりの商品が、びっしりと、端から端まで。
俺はスポンジを探しながら、なんとなく棚を眺めた。
なんとなく、だ。そこが問題だった。
「安いから」という魔法の言葉
スポンジはすぐ見つかった。110円。
でも棚の前で立ち止まって、隣を見た。
ゴム手袋が置いてあった。
そういえば、ゴム手袋、古くなってたな。
110円だし、買っておくか。
そこから始まった。
収納ボックスのコーナーを通ったとき、小さいサイズのやつが目に入った。引き出しの整理に使えそうだ。
安いから、買っておくか。
次は文房具コーナー。ボールペンが5本セットで110円。職場でよく使うし。
安いから、買っておくか。
メモ帳。マスク。輪ゴム。洗濯ネット。
そのたびに、あの言葉が頭の中に浮かんだ。
安いから。安いから。安いから。
レジに並んだとき、カゴの中に10個の商品が入っていた。
合計、1100円。
スポンジを買いに来ただけなのに。
帰り道で気づいたこと
袋をぶら下げて歩きながら、俺は少し冷静になった。
今日、何を買ったんだっけ。
ゴム手袋。収納ボックス。ボールペン。メモ帳。マスク。輪ゴム。洗濯ネット。あと何だっけ。
袋の中を確認するために、公園のベンチに座った。
取り出してみると、思い出した。
蛍光ペンのセット。あと、謎のS字フック。
S字フックに至っては、何に使うつもりだったのか、5分後にはもう思い出せなかった。
スマホで「100均 ついで買い やめ方」と検索しながら、ベンチの上で溜息をついた。夕暮れの公園で、一人で。
「安い」と「得」は、別の話だった
帰宅して、買ったものを並べた。
ゴム手袋は、引き出しにまだ一枚残っていた。
収納ボックスは、置く場所が思い浮かばなかった。
ボールペンは、机の引き出しに同じものが4本あった。
メモ帳は、去年買ったやつがまだ半分以上残っている。
110円でも、使わなければ0円以下だ。
ものが増えて、場所を取って、捨てるときにまたエネルギーを使う。むしろマイナスだ。
「安いから得」は、必要なものを必要な量だけ買ったときにしか成立しない。
当たり前のことなのに、100円ショップの中にいると、その当たり前が消える。
不思議だな、と思った。あの空間は、何かが違う。
100円ショップが仕掛けていること
調べてみると、答えはわりとシンプルだった。
100円ショップの棚は、「ついで買い」を起こしやすいように設計されている。
目的の商品を探すには、必ず別のコーナーを通らなければならない導線になっている。陳列の密度が高く、目が自然と色んなものに引っかかる。しかも全部、「たった110円」という値段が貼ってある。
心理学の言葉で言うと「アンカリング」という現象が起きている。難しく聞こえるが、要するに「基準の価格が低いと、何でも安く感じてしまう」という人間の性質のことだ。110円という数字が頭に染み込むと、次の110円がとても小さく見える。10個買っても1100円。でも、それは1100円だ。
店が悪いわけじゃない。商売として、正しいことをしているだけだ。
ただ、俺が知らなかった。それだけのことだ。
「必要かどうか」を問う癖をつける話
あの日から、俺は100円ショップに入るとき、一つだけ決めごとをした。
買い物リストを、入る前に作ること。
スマホのメモでいい。「スポンジ、以上」と書いてから入る。
それだけで、ついで買いがかなり減った。
当たり前のことを当たり前にやる、ということが、お金の話では思いのほか大事だと気づいた。
家計管理の世界では「衝動買いを防ぐ最強の方法は、リストを持って買い物に行くこと」と言われている。研究でも何度も確かめられていることらしい。シンプルだけど、シンプルだからこそ効く。
必要なものを、必要な分だけ。
それだけで、100円ショップはちゃんと味方になってくれる。
S字フックはまだ、袋から出していない。
「節約」の本当の意味、少しだけわかった気がする
お金がないと、とにかく「安いもの」を探す。
それは間違っていない。でも、安いものをたくさん買うことと、お金を大切に使うことは、まったく別のことだ、と今は思っている。
節約とは、支出を減らすことではなく、「本当に必要なことにだけお金を使うこと」に近い気がしている。
哲学みたいになってきたが、俺はまだお金の勉強を始めたばかりだから、これくらいのことに気づくだけで精一杯だ。
それでも、一つずつ、ちゃんと気づいていきたいと思っている。
夕暮れの公園で買い物袋を眺めながら、そう思った。
S字フックを握りしめながら。
岡根健作のひとりごと
「安いから」って頭に浮かんだとき、一回だけ「本当に要る?」って自分に聞くといいらしい。これ、衝動買い防止の心理テクで「10秒ルール」って呼ばれてる方法に近い。
10秒待てば、欲しい気持ちの約半分は自然に消えるんだって。100均の棚の前で10秒立ち止まるだけで、財布はずいぶん違う結果になるかもしれない。

