仕事でたまに、都心の高級マンションの前に立つことがある。
警備の仕事というのは、場所を選ばない。今日はビルの前、明日は工事現場、来週は高級住宅街、ということが普通にある。
先月、港区のあるマンションに入ったとき、私はゴミ捨て場の前で少しだけ立ち止まった。
綺麗だった。
ゴミ捨て場が、だ。
ゴミ捨て場に、扉がついていた
正確には「ゴミ置き場」と呼ぶべきかもしれない。
扉がついていた。鍵もついていた。タイル張りの床。照明もある。消臭剤が置かれていた。分別の案内が、ラミネートされて壁に貼ってあった。
私が普段使っているゴミ捨て場とは、別の生き物だった。
私の住むアパートのゴミ捨て場は、駐輪場の隅にネットがかかっているだけだ。カラスが来る。たまにネットがめくれている。雨の日は少し臭う。
それが普通だと思っていた。
ゴミ捨て場に扉がある、という発想が、そもそも私の中になかった。
「ゴミ捨て場 高級マンション 違い」で検索した
その日の夜、仕事終わりにスマホで打ち込んだ。
「ゴミ捨て場 高級マンション 違い」
電車の中、吊り革を握りながら。混んだ車内で、ちょっと恥ずかしいキーワードだと思いながら。
出てきた情報を読んで、なるほど、と思った。
高級マンションのゴミ捨て場が綺麗な理由は、単純に管理費が違うからだ。
マンションには「管理費」というものがある。毎月住人が払うお金で、共用部分の清掃や設備の維持に使われる。高級マンションになるほど、この管理費が高くなる。そして管理費が高いほど、共用部分に手が届く。
ゴミ捨て場の扉も、照明も、消臭剤も、全部管理費から出ている。
住人が意識しなくても、お金が勝手に環境を整えている。
お金は「見えないところ」にも流れている
これが面白いと思った。
お金がある場所には、見えないところにも丁寧にお金が使われている。
住人は毎日ゴミ捨て場を「選んで」いるわけじゃない。そこに住んでいるから、自然と綺麗な環境の中にいる。意識しなくても、清潔な空間が維持されている。
私の部屋はどうだろう。
帰ってきたとき、少し想像した。
テーブルの上に読みかけの本と、開封した郵便物と、コンビニの袋が重なっている。床に脱いだままの靴下がある。洗い物が一個、シンクに残っている。
べつに極端に汚いわけじゃない。でも、あのゴミ捨て場よりは、確実に雑然としている。
ゴミ捨て場に負けた、という事実が、妙に刺さった。
「環境」にお金をかけることの意味
お金がないと、「生活の質を上げる出費」を後回しにしがちだ。
収納グッズを買う余裕がない。掃除道具を揃えられない。部屋の中が片付かない。片付かないから気持ちが落ち着かない。気持ちが落ち着かないから、なんとなくコンビニで余計なものを買う。
負のループ、というやつだ。
逆に言えば、環境が整っていると、無駄遣いが減るという研究がある。
部屋が綺麗な人ほど衝動買いが少ない、という話を読んだことがある。散らかった空間にいると、脳が「コントロールできていない」と感じて、食べたり買ったりで埋め合わせをしようとするらしい。
心理学では「認知負荷」と呼ぶ。難しい言葉だが、要するに散らかった部屋は、脳にじわじわ負担をかけ続けるということだ。
高級マンションの住人が全員、精神的に安定しているとは思わない。でも少なくとも、ゴミ捨て場のことで脳を使わなくていい、というのは確かだ。
「整える」ことは、節約でもある
それから私は、少しだけ部屋を片付けた。
お金はほとんどかけていない。
コンビニの袋を捨てた。靴下を洗濯カゴに入れた。テーブルの上のものを、引き出しにしまった。
それだけで、部屋が広くなった気がした。
気持ちも、少し落ち着いた。
翌日、なんとなくコンビニに寄りたい気持ちが、いつもより薄かった。気のせいかもしれない。でも気のせいじゃないかもしれない。
管理費を払って環境を整えることは、今の私にはできない。
でも、今ある部屋を少し整えることなら、できる。
お金をかけなくても、環境はある程度、自分で作れる。
そのことに気づいたのは、港区のゴミ捨て場の前で立ち止まったからだ。
豊かさは、見えないところに宿る
あのマンションの住人たちは、ゴミ捨て場を意識していないと思う。
綺麗なのが当たり前だから。意識する必要がないから。
当たり前の水準が高い場所に住む、ということは、そういうことなのかもしれない。
気づかないうちに、環境が自分の基準を作っている。
今の私には、あのマンションに住む選択肢はない。
でも、自分の基準をどこに置くか、は選べる気がしている。
答えはまだない。でも、ゴミ捨て場を見て、少しだけ考えが動いた。
港区の夜は、私のアパートの周りより、静かだった。
岡根健作のひとりごと
「環境が人を作る」ってよく言うけど、お金の話でも本当にそうらしい。
行動経済学では「デフォルト効果」といって、何もしなくても自動的にいい状態になる仕組みに人は従いやすいと言われている。
高級マンションのゴミ捨て場が綺麗なのも、住人が努力しているんじゃなくて、仕組みがそうなっているから。仕組みを整えることが、長い目で見ると一番コスパがいいのかもしれない。

