エアコンをつけるたびに、頭の中で何かが軋む。
音ではない。感覚だ。電気代が増えていく、あの感覚。
火曜日の朝、俺は財布の中身を確認してから、リモコンを棚に戻した。今日は外に出よう。お金を使わずに、どこかで時間を潰そう。
スマホで「図書館 無料 涼める 近く」と打ち込んだのは、玄関先でサンダルを履きながらだった。
情けない検索だな、と自分でも思った。でも、情けなくたって涼しければいい。今の俺には、そのくらいの割り切りが必要だった。
図書館の匂い
自動ドアが開いた瞬間、顔に冷たい空気が当たった。
図書館の匂いがした。古い紙と、かすかなホコリと、それから何とも言えない静けさの匂い。子どものころ以来来ていなかったから、懐かしいというより、少し他人の家に上がり込んだような気分だった。
中に入って、俺は少し立ち止まった。
人がいる。
平日の昼間なのに、けっこうな数の人がいる。
窓際の席に、白髪の老人がいた。新聞を広げて、ゆっくりとページをめくっている。急いでいない。スマホも見ていない。ただ、紙の上に目を落としている。
絵本コーナーからは声がした。
「ここにね、くまさんがいるんだよ」
母親の声だった。子どもが何か応えて、また母親が笑う。その小さなやりとりが、広い館内にふわっと溶けていった。
奥の長テーブルでは、スーツの男がノートパソコンを叩いていた。その隣に、参考書を広げた若い女性。
みんな、静かにそこにいた。
お金を払わずに。誰かに急かされることもなく。
俺は棚から一冊取って、空いている席に座った。南米の旅行記だった。理由はない。たまたま手に届いたから。
計算癖
読み始めて30分ほどで、頭の中に計算が走り出した。
お金がなくなると、人間はあらゆるものを「時間あたりの値段」に換算し始める。これは本当のことで、少なくとも今の俺はそうなってしまっている。
もしここがカフェだったら。
コーヒー一杯、600円。長居すると気まずくなってくる空気。2時間いたとして、1時間あたり300円。
でも図書館は0円だ。
本も読める。静かだ。Wi-Fiもある。トイレも清潔だ。空調も効いている。
これ、普通に最強じゃないか。
なぜ今まで使っていなかったんだろう。お金がないと嘆きながら、無料で使えるものを使っていなかった。その矛盾が、南米の旅行記のページの上でゆっくりと形になった。
老人のページのめくり方
視線がまた、あの老人に向いた。
彼はまだ新聞を読んでいた。同じ姿勢で、同じペースで。ページを半分まで読んで、また戻って、何かを確認するようにもう一度眺めている。
俺はどうだろう。
毎日スマホでニュースをスクロールして、5秒で次の記事に移って、また次へ。指が止まらない。目が止まらない。でも、何も頭に残っていない。
一週間前に読んだ記事の内容を、ひとつも言えない。
あの老人の方が、ずっと豊かな「読み方」をしていると思った。そう気づいた瞬間、
豊かさって、何だろう。
という問いが、南米の旅行記の文字の向こうからゆっくりと浮かび上がってきた。
お金がないと、無料のものが見える
これ、意外と悪くない視点だと最近思っている。
お金がある人は、お金で解決できるから、無料のものを探さない。でもお金がない人は、無料のものを死ぬほど探す。
探しているうちに、気づく。
世の中に、無料で使えるものが、思っていたよりずっとたくさんある。
図書館はその代表格だ。本が読める。勉強ができる。静かな空間がある。ネットも使える。しかもただ無料なだけじゃなくて、質が高い。司書さんが選んでいるから、変な本は基本ない。管理されている。安全だ。
これを「貧乏だから図書館に行く」と恥じる必要は、まったくない。
使えるものを賢く使っている、と言い換えたほうが正確だ。
知識という、目に見えない資産
旅行記を読み終えて、俺は棚の前に立った。
お金の本のコーナーがあった。
積立NISAの入門書、家計簿の作り方、副業の始め方、節約術、投資の基本。それらが何十冊も、無料で並んでいる。
お金の世界では、知識は「人的資本」と呼ばれることがある。難しく聞こえるが、要するに「頭の中にある、お金を生む力」のことだ。スキルや経験や情報が積み重なって、将来の収入につながっていく。目には見えないけれど、本物の資産だ。
俺は何冊か引っ張り出して、席に戻った。
図書館で読むと、なぜか頭に入りやすい。
静かだからか。スマホを見ないからか。理由はよくわからない。でも、家でスクロールしているときよりずっと、内容が残る気がした。
夕方の空
3時間ほどいて、外に出た。
夕方になっていた。西の空がオレンジに染まりかけていて、帰宅する人たちが自転車で横を通り過ぎていった。
俺は歩きながら、今日の午後のことを考えた。
電気代を使わなかった。カフェ代も使わなかった。本代も使わなかった。でも、お金の勉強ができた。落ち着いた時間が過ごせた。あの老人の読み方を見て、何かを考えた。
一石四鳥だ。
冗談みたいだけど、本当のことだ。
お金の問題って、収入を増やすことだけじゃない。支出の質を上げることも、同じくらい大事だ。「何にお金を使うか」だけでなく、「何に時間を使うか」も、積み重ねると大きな差になっていく。
お金がない状態から這い上がろうとしている俺が言うと、説得力に欠けるかもしれない。
でも、こういう小さな積み重ねが、いつかどこかでつながると信じている。
信じていないと、やっていられない、というのが本音でもあるけれど。
夕焼けの中を歩きながら、俺はまた明日の図書館について考えていた。
岡根健作のひとりごと
図書館って、実は「知識の無料サブスク」なんだ。サブスクって月額料金がかかるイメージだけど、図書館は税金で運営されているから、利用料はもう払ってある。
使わないと損してるかもしれない。豊かさって、お金の量より「使えるものをちゃんと使えているか」に近い気がしてきた。

